2005年7月7日木曜日

「封印作品の謎」

封印作品の謎
安藤健二「封印作品の謎」太田出版

マスメディアの「自主規制」の問題を追ったのは森達也の「放送禁止歌」だったけど、この本もそういった内容かと思いきや実は正反対で、作品を生みだした側がその作品を表舞台に出さないと決めた事情を追っていく内容。

具体的にはかの有名な「ウルトラセブン12話」や「怪奇大作戦24話」映画「ノストラダムスの大予言」「ブラックジャック41話・58話」などが取り上げられているのだが、どれも病気や事故の扱いに問題があるのが共通点。
僕はこの本を読むまで、たとえばセブンの12話なんて一言添えて解禁すればいいのに、と思っていたけど、問題はそんな簡単なものではないことが分かる。
それを出すことで制作者がかつての苦渋を再び味わったり、たとえ視聴者の一人でも不快な思いをするなら出したくないという場合、それを無理に出させるのは逆に制作者に対してのハラスメントなのではないかと思えるのだ。
これらの作品は、もちろん抗議を受けてということもあるけど、何らかの障害を乗り越えてでも世に出したい、という作品群では決してないというのもまた共通点である。
その辺が「放送禁止歌」と対称的で、あちらは誰もがこの歌を伝えたい、と思っているケースが多いのに、こちらではどの作品もなかったことにしたい、と思っている。この辺りは「歌」というものがプライベートなものであるゆえ責任の所在がわりと明確なのに対して、映像作品というのは携わる人も多くその辺が曖昧なことが多いからなのかもしれない。
またブラックジャック以外の作品は、あらすじを読むかぎり内容に問題があるというよりはかなり稚拙な部分が感じられる。取材が足りない、というのはどれにも共通している。
もっともたとえば円谷プロは封印作品が抱える問題と真っ正面から取り組む気は、おそらくないだろう。円谷プロがこれらの作品に対して、関連ライター陣に圧力をかけている様子がこの本から分かるんだけど、ここは読みどころ。エンタティンメント企業として仕方のないことだとは思うが、逆にそういう態度が封印したい作品を目立たせていることには気づいてないのだろうか?
放送・販売はしなくとも、公式なコメントを出し、本における国会図書館のような場所で(ないか?)ライブラリとして置いておく、というぐらいが正しい対処なのではないか?
誰に責められようと抗議されようとこれは絶対に出したい、と作り手側が責任とポリシーを最後まで持てるものを作っていないとこういうことが起こってしまうのだろう。

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