2009年10月25日日曜日

読んだつもりになってた藤子本

あー、藤子F不二雄全集、パーマンだけが読めないままたまっていく……。後半のパー子編以外はホントにつまらんなぁ、このマンガ。

��

さてさて、こないだ「トキワ荘青春日記」を読んだらまたもや藤子~トキワ荘関連が読みたくなってきて、ふと本棚を見るとこの本が。

二人で少年漫画ばかり描いてきた―戦後児童漫画私史 (1980年) (文春文庫)
B000J85M4C


刊行当時親父が買った本で、マンガの1カットなどが結構載っていたため子どもの頃パラパラと見ていた。
しかしよくよく考えてみると、この本きちんと読んだことがない気がする。

と思って最初から読み始めると、やっぱり読んだ記憶がない。ラッキー(!?)。

藤子不二雄の関連書籍はたいていA先生が書いているんだけど、この本もそう。各章の序文だけF先生が登場する。またあとがきによると、副題に「戦後児童漫画私史」とあるように、「僕たちはこの歳になっても、まだ少年漫画を描いている」というタイトルでTBSの「調査情報」に一年五ヶ月連載したもので、藤子不二雄の半生伝を通してA先生が少年漫画の移り変わりやそもそもなんぞや?を語る内容になっている。

この本が一番面白いのは、オリジナルの単行本が出たのが昭和52年で、文庫になったのが昭和54年。
その間に何があったかというと、「ドラえもん」の大ブレイク(というか、文庫の表紙にデカデカとドラえもんが描かれているように、この文庫化自体「ドラえもん」のブレイクありきだったんじゃないかと思う)。

この本はその「ドラえもん」大ブレイク直前までの藤子不二雄に関して書かれているのだ。

だからこの時点での彼らのヒット作はほぼ「オバケのQ太郎」のみという認識で、ベテランでヒット作がある一児童マンガ家であるというスタンスで執筆されている。

最後の方では青年マンガ誌ブームにのって少年漫画をおろそかにしてた、これからは少年漫画に回帰したいという志が書かれているが、有言実行、その数年後に「ドラえもん」で大ブレイクを果たして国民的作家にまで登りつめる。
文庫化のあとがきではその驚きと喜びが書かれている。

��

その他、読みどころピックアップ。

「まんが道」と違って、二人は別々の中学に通っていた。が、校舎が隣りだったので放課後はいつも一緒だったとか。

二人とも漫画投稿をしていたが、やはり藤本(F先生)の入選率の方が断然よくて我孫子(A先生)はかなりジェラシーを感じていた。が、合作形式をとって一心同体になったらまったく気にならなくなったそうな。
この辺はA先生らしい。

二人が宝塚の手塚先生宅に行った際に「来るべき世界」のアウトテイクを見せられて圧倒されるエピソードは「まんが道」にもあったけど、マンガと違い自分たちの原稿を見せた後で、また泊まっていけばという手塚先生をふりきって駅まで行ったけど終電は終わっていて駅で一夜を明かしたらしい。

彼らが漫画家になった頃は月刊漫画誌がブームで(それまでは絵物語などの方が人気があった)、付録に長編漫画をつけるようになったりと漫画家が全体的に不足していた時期だったので、すぐに仕事があった。

二人ともディズニーシンパだったが、「不思議の国のアリス」で離れてしまったとか。それぐらい「アリス」はそれまでのディズニーとテイストが違っていたというのが生々しく分かって面白いエピソード。

「オバケのQ太郎」の直前、とくに同じギャグ路線だった赤塚不二夫が「おそ松くん」であれよあれよと人気漫画家になり、自分たちもヒット作がほしいなぁ、と思っていたところであった。

ところが「オバケのQ太郎」自体はスタジオゼロの資金を集めるために「雑誌部」として描いた作品であったため、当初はそれほど思い入れがなかったという。テレビ化もそれまで「シスコン王子」やスタジオゼロの仕事で難しさを知っていたため乗り気ではなく、大ブームになるとは予想してなかったそうな。
なお、それ以後しばらくテレビありきで作品作りが行われ、昭和42年「パーマン」昭和43年「怪物くん」昭和44年「ウメ星デンカ」まで続く。「ウメ星デンカ」の後が「巨人の星」というから面白い。

この昭和40年代の藤子ブーム、というのは昭和48年生まれの僕にとっては全くよく分からず、時々年配の人で藤子不二雄の代表作=オバケのQ太郎、という人がいるのはこの影響なんだろうなぁ。
もし「ドラえもん」がなかったら藤子不二雄は昔ヒットがあったベテラン児童漫画家という位置だったんだろう。

でも「ドラえもん」を生み出すポテンシャルはずっと持っていたし、「コロコロコミック」が創刊されて彼らの過去作品が掲載されたときも全然古くさく感じなかったのはやはり二人の児童漫画家としてのポリシーと実力だったんだろう。

0 件のコメント:

コメントを投稿