2007年3月11日日曜日

ジーンと感動する映画

僕は1973年生まれなんだけど、1970年代の映画・テレビ番組というのはタイトルや筋は知っていても実際に観たことがなかったりするものが多い。
この作品もそのひとつだった。ラストだけは子供の頃友達に聞いて知ってはいたんだけども。

エクソシスト ディレクターズカット版
リンダ・ブレア
B000IU4NOQ


一時期集中的に恐怖系映画を観た時もなぜか「エクソシスト」はスルーだった。
ちなみに「~2」はテレビで観たことがあるけど好きじゃなかった、というか意味が分からなかった。

数年前にディレクターズカット版が上映された際にこの作品を思い出して、観てみたいなとは思ったけど、なんとなくその機会がなかった。「Mike Oldfield/Tubular Bells」が好きなんだけど、「エクソシスト」でどういうふうに使われているのか確かめてみたくもあった。

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ここでちょっと話は「エクソシスト」から離れて、M・ナイト・シャマラン作品の話になる。

「シックス・センス」は人に話を聞いてたらその“ネタ”に気づいてしまって、それを確かめるために劇場に足を運んだのだけど、ネタが分かっていても面白くて、でもそのころは「シャマラン=どんでん返しをする人」と思っていた。
だもので、続く「アンブレイカブル」は「なんだこりゃ?」で、しばらくはアンチ・シャマランだったが、DVDでなんとなく観た「サイン」が思いの外好きな作品で、この人は「どんでん返しをすることがアイデンティティではない」ことにやっと気づいたのだった。
サイン
M.ナイト・シャマラン メル・ギブソン ホアキン・フェニックス
B000CFWNC6


じゃあ、どんな人なのかというと

「信じていたこと」が何かの事件によって揺れ動いている人の葛藤を描き、そして最後は何かを「信じていたこと」がちょっとした奇跡を呼ぶ

のが彼の主題なのではと思う。ラストはどんでん返しよりもむしろ、使い古された言葉だけど「癒し系」な感じが強い。

先日DVDで観た「ヴィレッジ」も予想通りの内容で、けっこう好きだった。
ヴィレッジ
ホアキン・フェニックス M.ナイト・シャマラン エイドリアン・ブロディ
B000FI9P1W

余談だけど、ホアキン・フェニックスは石原良純に似すぎ。

ただ、やや物足りなくもあってこのような路線の映画をもうちょっと見たいなぁと思ってると、ここで突然「エクソシスト」が思い浮かんで、レンタルしてみた。
カンとしか言いようがないんだけど、時々こういうことがある。

そのカンはビンゴ!だった。
そして思いがけなく、かなり感動してしまった。その感動の種類はかなりシャマランの映画と似ていると思う。しかもより深い。見終わってすぐに監督の音声解説付きで見直して、その後1000円だったこともあってDVDを購入してしまった。

では、どこがよかったのか?

まず、僕はもう完全に主人公が「カラス神父」(力石似)だと思って観ていて、彼の信仰のゆらぎと葛藤の描き方が丁寧でとてもよかった。
もちろん悪魔憑きになった娘をなんとか元に戻そうとする母親、というのも娘2人を持つ親としては共感できた。
その悪魔憑きも、脳障害ではないか、精神的な病気ではないか、と科学的な分析を徹底的にやる過程を描いているから、そのどれでもない……という絶望感が際だつ。
オカルト映画ではあるけど、作り手がオカルトどっぷりではないから、オカルトに否定的な僕のような人間にも説得力がある。

そして、これら2つのドラマを平行で描きつつ最後の方で一本にまとまっていく筋立てもうまい。

もうひとつ、この映画の魅力は意図的かそうじゃないのか分からないけど、いろんな「読み」ができるところではないか、と思う。

たとえば、主人公の母親が映画女優であること、って実は本筋にとってはどうでもよい。とくに事件が起こるワシントンにはロケで来ていて今いる家は一時的な借り家であること、というのはヘタすると気づかないまま見終わる人もいるかもしれない。
でもたとえば、そういう環境であるから父親とは離婚したのかもしれないし、いつもと別環境であるという娘の不安定さが悪魔をつかせやすくしたのかもしれない。女優の娘であるから、悪魔に憑かれた演技が得意なのかもしれない。だけど、そうだともそうではないとも描かれてはいない。
監督の解説では、この映画内映画の台詞が実はテーマと絡んでいる、とのことだけど、そういうところもニクい。

カラス神父が大学でカウンセラーをしていることも、重要なんだけどけっこう分かりにくい。これ自体は本業ではなく、あくまで神父だと言っていたと思うし。実は神父でかつカウンセラーでもある、という立場が彼の複雑な立ち位置の演出に役立っているわけだけども。
彼の母親が聞いているラジオから流れてくるのはギリシャの音楽で、彼は移民の出自であると監督の解説にある。

ちなみに、なんで警部がカラス神父に事情徴収をしたのかが最初観たときは分からなかったが、監督の解説では、カラス神父が大学でカウンセラーをしているから、もうひとつのマリア像事件のこともあって、なにか心当たりがある人物がいるのでは?と思って来たらしい。
誰かがblogで「警部はカラス神父を疑っていたのでは?」と解釈していて、その解釈自体は書いた本人が後から否定していたけど、そう読むのも面白いなぁと思った。

また、デニングスがお手伝いのオジサンに「ナチだろ?」と詰め寄るエピソードとか、本筋とどう関係あるのか曖昧だった。これもこの家に悪魔がいるからデニングスが抑圧していた感情が発露した、と解釈できなくもない。

あと、結局娘のベッドに十字架を置いたのは誰なのかが分からなかった。あれは、デニングスが置いたものなのだろうか?
デニングスがオジサンに言いがかりをつける→出る際に少し我にかえって何かを言おうとする→実はデニングスはこの家に悪魔の気配を感じて気にしている→その後、十字架を娘に渡そうと思って家に行く→悪魔に憑かれた娘に逆に殺される
と解釈できないだろうか?

とか、ミステリー小説の種明かしという意味とは違う、テーマ的な部分でいろいろと観る側に「読み」をさせたくなる演出になっていると思う。

このあたりはディレクターズカット版DVDにある監督の音声解説と「エクソシスト/オカルト映画脚本の書き方」というサイトを読むと面白いです。

そうそう、悪魔との対決が、地味なのもよかった。いわゆるサイキックウォーズみたいな描写は一切なくて、むしろ交渉(説得や誘惑、動揺を与える、とか)に近い。意外と悪魔が絶大な能力を持たないところもよい。神父たちを殺そうというよりは、その信仰を崩そうとしにかかるのもリアリティがある。

公開当時、ラストはバッドエンディング的にとらえる人が多かったそうだけど、監督はそれは観る人の解釈の自由だが自分はそうではないと考えている、と語っている。
僕も、決してハッピーエンドとは言えないけど、カラス神父は自分の命と引き換えとはいえ自分の信仰によって人を救うことができたわけで、彼の葛藤は最終的に解決したと言えると思う。また、事件自体も収束したわけだから、少なくともバッドエンディング(悪魔の勝利)とは思わなかった。

このように見終わった後も数日間いろいろと考えてしまった。そういう点でも「いい映画だなぁ」と思う。

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さて、観る前までは「Mike Oldfield/Tubular Bells」がなんでオカルト映画に?と思っていたけど、本作が上記のようなテーマを持つ作品だと分かるとかなり相性がいいと感じる。ただ、当時のCMとかで「Tubular Bellsをバックに首が180度回転する映像」だとすると、変なイメージが一般的についちゃっただろうから、それは不幸だなぁと思う。それは、「Tubular Bells」の不幸だけではなくて、この映画の不幸でもある。

ところで、ディレクターズカット版エンドクレジットの一番最後あたりで「Les baxter/Quiet Village」がクレジットされている。どこかで使われていたのだろうか?全然気づかなかった。

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