2009年5月4日月曜日

「難波功士/ヤンキー進化論」

昔から不思議だったのは、マンガや映画といったメディアでなぜヤンキーものやヤクザものがリリースし続けるのか?、ということだ。

自分の仮説としては
��.そういう作品が商品として成り立つほど、かつてヤンキーだった人は多い
��.誰しもが(フィクションの中での)ヤンキーやヤクザにどこかで憧れている
だったけど、これらのどちらもそうなんじゃないか、と思う。

自分はといえば、地方都市のそのまた郊外で育ったので、中学校に入ると今でいうヤンキー、当時はツッパリとはさすがに言わずに不良、が周りには多かったし、男子の「カッコよさのベクトル」は明らかにそちらに向いていた。

ところが、自分自身は体が小さいこともあり、ケンカが強い・弱い以前にしたことすらない、という「ジョジョ第四部」でいうと康一くんみたいなタイプだった。

そういうこともあって、ヤンキー文化というのはとても受け入れがたくて、そういうマンガや映画を見て面白いと思ったためしがない。だってたいて無性にケンカが強いやつが主人公だから、感情移入しづらいのだ。

ずっとそういう思いを持っているところへ待ってました、というこの本。

ヤンキー進化論 (光文社新書)
難波功士
4334035000


この本の作者も、自分の境遇と似たような感じなんだけども、ユニークなのはそれでもどこかでヤンキーにシンパシーを感じているところ。

その視点をもって、不良文化がヤンキーとひとくくりにされるまでの“戦後アウトロー文化史”から彼らのファッション、メンタリティ、周辺文化、支持されるフィクション、ヒップホップへの接近、イギリスのラッズとの共通性などなど、社会学者ではあるけれども突き放した学者視点ではなくて、愛をもって観察、という感じで単純に楽しめた。

あとがきでは、最近出た藤原ヒロシの半生を描いた「丘の上のパンク」に触れて、この本で描かれたようなクールなスタイルだけが日本でのパンクやヒップホップの受容の形ではなかったことを強調している。また藤原ヒロシを代表とするセンス・エリート文化に対して、この本を読んできたらなるほどと思わせる批判性を持っているのも面白かった。

しかし驚くのは、新書300ページを費やしてもまだまだヤンキーには語れることがあると感じさせる、ヤンキー文化の層の厚さ。

そして同じくあとがきではこんな本も紹介されていて、こいつもまたぜひ読んでみたい。
ヤンキー文化論序説
五十嵐 太郎
4309244653


0 件のコメント:

コメントを投稿